歴史館

母校の歴史

歴史館では、母校の歴史を二十周年と四十周年を記念して創刊された「城西二十年のあゆみ」と「岡崎城西四十周年誌  ~新しい教育を求めて~」より、その一部を抜粋しながら連載形式で紹介したいと思います。

第1回
Ⅰ 創設の槌おと
1.開校に至る経緯
(1)創設の原点を探る
創始者における人間教育の情熱
創始者、寺部だい先生は明治16年(1883)碧海群桜井村(現、安城市桜井町)に生まれた。当時、教育に対する関心は薄く、男尊女卑の風習の強い農村では、女児の就学は僅かに医師、教師、寺の子女に限られていたが、先生の母親は、そんな時代に読み書きの必要性を考え、だい先生を小学校に入学させた。これは近所の話題となり、学校では友達からさげすまされて3年で中退。その後は村内の塾で学び、苦学して成長の末、教師の道を選び東京の渡辺裁縫女学校(現、東京家政大学)に学んだのである。東京勉学は、苦労力行の連続であったが、その後、安城に裁縫女学校を設立する。学園の今日に至る中で、苦労が絶える事はなかったが、先生はいかなる時でも真心を尽くし強い意志で初志を貫徹した。先生は常に深く感謝し社会に奉仕する事を忘れなかったのである。
男子校設置に関する地域社会の要請
戦後、日本経済の高度成長に伴い教育振興の機運が高まり、昭和37年より高校進学率が上昇し、昭和40年にはピークに達した。こうした中で西三河の人たちは、建学の精神と言う明確な教育理念のもとに、人間教育を真剣に考える私立の男子校の創設を切望した。
当時、西三河には男子の私立高校は皆無であり、私学の教育を願う西三河地域の男子は、やむを得ず遠く名古屋か東三河まで行かねばならなかった。地域の多くの人々がこの願望の実現を安城学園に期待した。それは安城学園が創立50周年を迎えようとしていた頃であった。創設者寺部だい先生は、岡崎市からの要請に苦悩されたが、地域の要望を受け入れ男子校の創設に踏み切られたのである。
(2)校地の設定と仮校舎
校地取得の経緯と仮校舎の借用
昭和37年度新設校の開設を目途に、36年の夏からその準備にかかった。設立場所は、西三河の中心地である岡崎市となり、中園町から舳越町にまたがる2万坪の農地が確保された。校地は確保できたものの、農地を校地に転用する手続きに手間取り、また安城校地で本館増築工事が前年の10月に終了したばかりで資金面が苦しかった事などの理由で校舎建設工事に取り掛かる事が出来なかった。このため37年4月に開校するには、仮校舎が必要であった。岡崎市の好意により、岡崎市明大寺町茶園にあった元愛知県繭検定所岡崎支所(昭和35年廃止)の建物を借用する事となった。
(3)校名と校章
岡崎城西の校名
校名の決定までには、学園理事長の寺部二三子先生、校長に内定していた渡辺平三郎先生、学園の金田誠一先生、鈴木三重次先生をはじめ、城西に移る予定であった先生達によりたびたび協議が行われた。候補としてあがったのが、清い矢作の流れに因んで「青川(せいせん)」、岡崎城の西に位置するところから「城西」などが上がったが、ただ城西だけでは他県にもあるかもしれないと言うので「岡崎城西」となった。読み方も「じょうさい」か「じょうせい」かで意見が分かれたが、結果「じょうせい」に決まった。こうして設置認可の申請書が出され、昭和37年3月6日に「安城学園女子短期大学付属高等学校岡崎城西分校」として認可が下りたのである。
校章のデザイン
本校の校章のデザインは、安城市明治本町の画家、福山進先生に創って頂いたものである。先生の原画には、「岡=勇躍、城=堅実、西=理想」の文字が書かれており、この校章をつける城西高校の生徒の将来に「勇躍・堅実・理想」のイメージをダブらせながら描かれたものと思われる。校章をじっと眺めると岡崎の地を表す「岡」の文字を背景に「高」の文字が岡崎城の石垣と天守閣を表しており先端の尖りは、理想を高く勇躍する様を表している。
(4)創設の中核をなす教職員
中核をなす教職員
渡辺平三郎先生は、岡崎市にあった愛知学芸大学(現愛知教育大学)の教授であり、愛知学芸大学岡崎分校の主事(副学長)を勤められた後、定年退職をされて安城学園の主事になっておられたが、城西高校創設と共に初代責任者(岡崎城西分校主事)に就任された。
母体である安城学園の付属高校からは、専任教員として安藤祐暁先生(社会)、平野清二先生(理科)、中島達哉先生(英語)、塚平啓造先生(社会)の4名。付属高校と兼任で鈴木修先生(数学)、西野隆三先生(音楽)、安城学園短大と兼任で布宮俊弥先生(美術)が配置された。そして三河地区の公立高校から上原達次郎先生(国語)、井村喜多男先生(国語)、名城大学から佐々木(後、山野井)和夫先生(保健体育)、静岡県から広岡実先生(理科)、大学新卒の水野不二子先生(英語)、武藤武先生(数学)が任命された。事務局には、柴田清事務長、安城短大卒の野末宣子、岩城真澄各事務員と松平信吉用務員。こうして、渡辺主事を中心に各界から集まった総勢18名が創設初年度の全メンバーであった。

2.開校、仮校舎における1年

(1)入学試験・第1回入学式
竜海中学での入試
昭和37年(1962)3月4日。朝からよく晴れた日曜日であった。 この日、岡崎市竜海中学校へ上る坂道を先生に連れられた男子中学生ばかりが続々と集まって来る。校門には新しい墨痕で「岡崎城西高等学校入学試験会場」と言う見慣れぬ名前の立看板が立てられていた。こうして、新設・岡崎城西高等学校の入学生選抜の筆記試験が開始された。午前9時30分から始まった第1時限は、国語・社会・保健体育の3科目60分間。第2時限は、数学・理科・英語の60分間であった。この頃は科目数も多く受験生も大変であったろうと思うが、各科共5問から8問の問題で20点満点であった。6日に行われる面接試験についての詳細な注意が行われ12時20分頃にすべてが終わった。
「わー」とグラウンドへ飛び出す晴々とした受験生の顔。これを迎えた中学校の先生方もほっと胸をなでおろしたことであろう。この日の受験生は571名。岡崎市を中心に、豊川、豊橋の東三河を含む広範囲であった。校舎が無く、試験会場も借りものであっただけに、不安な受験生にいかに落ち着いて実力を発揮してもらうか、監督の教員と助手の安城短大の女子大生ともども心を配った第1回目の入試であった。1日おいた3月6日、安城学園(安城市小堤町)にて面接試験が行われ、さらに3月末に2次試験が48名を集めて行われ202名が合格した。
入学式・岡崎城西分校の発足
桜も散り始めた4月11日(水曜日)、第一回入学式が挙行された。4月1日付で開校はしたものの校舎が未完成の為、岡崎市明大寺町字茶園17番地の元愛知県繭検定所を仮校舎として出発した。従って校名も正式には、「安城学園女子短期大学付属高等学校岡崎城西分校」であった。
父母と同伴の新入生は、玄関前に張られたテントの前で、春の心地よい日ざしを浴びながら受付をし、生徒は集会室に、保護者は教室に集合した。
午前10時開式。「A組、池ノ谷光春」と担任から名前を呼ばれて「はい」と言う元気な返事。「・・・以上202名、起立」。こうして202名の若人が入学を許可され、渡辺平三郎主事より第1回入学生としての心構えと励ましの言葉が述べられた。続いて安城学園長寺部だい先生のお祝いの挨拶が行われた。これに対し新入生を代表して宮崎倉治君の宣誓が行われ、新しい歴史を作る第1回生の決意を誓った。
安城学園からは、寺部二三子、金田誠一、鈴木三重次の諸先生方が列席されていた。
式の後、生徒は教室に入ってロングタイム、変わって保護者が集会室に入り職員紹介や諸連絡が行われ、生徒と共に教科書や帽子の購入をして明日からの高校生活に備えた。

教職員の意気込み
開校初年度、昭和37年度の職員は、渡辺主事(学校長)以下の教員が14名。事務員が3名と用務員1名である。
4月12日付の朝日新聞三河版のトップに「新設の城西高校が発足」の記事が載ったが、その中に「先生方は安城学園からきているがこれまでは女子の専門校だっただけに男子生徒の事はさっぱり分からず・・・」と書かれている。確かに教員の多くは、だいがくから、安城学園から、大学新卒と男子高校の教育には未経験者がそろっていた。しかし、新設高校の創立者としての責任感、意欲、情熱においては、どこの高校の教員に勝るとも劣らぬものを持っていた。
この年の職員会は、定例として1学期は木曜日、2・3学期は月曜日に毎週行われた。しかし教員が少ないだけに集まって話せば「職員会」となり、時間も午後6時、7時はざらで10時になる事も多々あった。誰もが遠慮なく発言し、議論百出、船頭多くして船山に上ることもしばしばであった。こういう自由な雰囲気の中で、この不十分な環境に学ぶ生徒たちの現実をいかに充実させ、それを将来の発展にいかに結び付けるかを真剣に討議していった。
生徒の学力向上には最も重点が置かれ、5月の上旬から英語・数学の補習授業が開始されるが、1学期の成績には厳しい評価が出され再試験受験者の数が非常に多かった。そしてこれらの問題を基に徹底した現状分析がなされ具体的対策が立てられていった。例えば、生徒の個性、能力、意欲を伸ばすために文化クラブを育成する事、図書館を開館する事、授業後生徒たちが自由に質問に来られるよう各教科の研究室を作る事などであり、これらは2学期から実行された。
(2)教育課程と特別学級編成
教育課程
昭和38年度から高等学校の教育課程が全面的に改訂され10年後に一部改訂されて現在のものになる訳であるが、この年、昭和37年度は旧教育課程の最後の年であった。岡崎城西高校の教育課程は、国語、数学、英語が6単位、社会、理科が5、保健体育が3、芸術科目は音楽、美術の選択で2、特活1を含めて合計34という特徴のないものであったが、これは当時の普通科公立高校と大差のない、最も標準的な課程であった。開校2か月後の6月に入ると早速次年度以降の教育課程の検討・作成を始めるが、その一つは初年度入学生、いわゆる37年度入学生の2年・3年進級時の教育課程であり、今一つは、38年度、第2回生が入学して来た時の新教育課程であった。この両者ともに、本校の生徒の実態、将来の進路選択に合った課程を私学の独自性を生かしながら如何に作成するかが大きな問題であった。このため県内の進学の実績のある私学の教育課程を参考にしたり、中部私学研究会や全国私学研究会に積極的に参加をし、教育課程や進学指導の研究をして城西独自の教育課程の研究を進めて行った。
英語の補習授業開始
効果的な学習指導をする為には、まず生徒の学力の実態を知らなければならない。このため、入学2週目の4月18日から21日にかけて、英語・数学・国語・社会・理科・保体の6教科の学力考査を実施した。教育振興会から取り寄せた問題であった。この結果、特に英語・数学については生徒の学力差がはっきりあることが分かり、低学力者の底上げを図ろうと言う事になった。教員側の情熱と共に、1学期の緊張感のある間こそ絶好のチャンスとして、実施されることになったのが英語と数学の基礎学力養成と実力養成の補習授業であった。
英語 月・水曜 3時30分~4時30分
数学 土曜   1時20分~2時20分
英語は3クラス、数学は2クラス編成で1クラス30名くらいずつ。保護者宛てにもその趣旨を説く通知を出し、受講料(英語100円、数学50円)を添えて申し込みをさせた。5月12日(土)には、第1回の数学が始められ、7月上旬まで続けられていった。夏休みの補習は、実力養成を中心としたもので、希望者にさらに徹底して行われた。7月下旬からの6日間、8月下旬の6日間の計12回、1時限を105分として、1日2時限という集中方式であった。
学力別学級編成
4 月にスタート時の学級編成は,芸術科目の選択によって分けたものであった。すなわち、A ・B組は音楽選択クラス、C・D・E
組は美術選択クラスで、39名から41名編成の5学級であった。
当時安城学園の事務長兼理事長であった寺部二三先生から大学進学
率の向上に伴い、城西も進学の実を上げなければならない。そのためには能力別学級編成にして学力の向上を図る必要があるからこの事を検討してほしいとの要請があった。
これを受けて,6月末から8月上旬にかけて、数回にわたる職員会の討議がなされていった。20代が中心の当時の教員たちは非常に理想主義であり、城西の教育的主眼は人間形成であり、社会的要求から進学を目的とするので、2学年以降は文科系理科系に分けた各科の能力別に分けるとして、今すぐに能力別に分けることには概して反対であった。7月3日の職員会は、この件を中心課題とした。第1に「能力別編成を論ずる前に現状分析をする必要がある」として、
①各生徒の個性・能力・意欲を伸ばす教育を。例:文化クラブ活動。
②設備の拡充。例:図書館。
③意欲・基礎学力・成績の差。
④教師との接触の機会を。
⑤クラスの雰囲気に、ボスの支配。
第2に、「具体的に直ちに取り掛かること」として、上記の5点について具体案を作り実行に取り掛かったが、これらの経緯を中間報告として理事長に報告した。
理事長よりは、さらに「英数総合による能力編成を」の強い要望が出され、結局8月10日の職員会では異論も出たが「とにかく能力別クラス編成をやってみる」という結論が出されたのである。
2学期が始まってすぐの9月3日、国・数・英各50分ずつの編成テストを実施した。この成績をもとに、学級担任会で学級名簿作成の検討がなされ、上位均等2クラス(A・B組)と下位均等3クラス(C・D・E組)を作り、これが職員会で承認された。16日に集会が持たれ、学級再編成について渡辺主幹から説明があった。
翌17日、第1時限にロングタイムが組まれて教室移動がなされ、この日から特別学級編成による授業が開始された。
(3)服装・頭髪など
服装は高校生らしく
37年3月末に行われた新入生説明会のプリントによると、「高校生らしい服装、ツメエリ、誰から見ても恥ずかしくない服装をしているように」とあり、さらに38年度もほぼ同様で「服装は高校生としてふさわしいものを着用する事。制服は特に指定しないが、市販の学生服、ボタンは必ず指定のものを着用する」となっている。
学生帽を着用。「無帽は長髪のものでも禁止する。帽子は既定のものを着用する。変型は一切禁止する」となっていて、校章の配布と共に学生帽を入学式で販売した。黒のツメエリ学生服を着て、通学靴は白のズック靴又は黒皮の短靴という当時の一般的高校生の服装が初期の城西高校生であった。大学生もまだツメエリ学生服を着ている時代であり、変型学生服もなく、特に問題にならなかったが、学生帽の変型や無帽、革靴の色などが生徒の関心の的で、服装違反の対象となった。
長髪届の提出
頭髪については、入学式後の説明で「近いうちに学校・生徒会・保護者で意見を出し合って決定する。それまでは丸刈りとする」と伝えられたが、生徒たちの長髪への希望は強かった。4月下旬頃から学級のロングタイムで長髪問題を討議し、さらに5月末には保護者の意見を問うた。結果は予想通りで、回答者189名のうちの¾は丸刈り派であり、長髪賛成はわずか12名であった。これらの資料を基に職員会で討議した結果、「各自の自由とする」と言う事を消極的ながら認め、長髪にする者は父兄の承諾書を提出させることにした。
保護者あての文書には、
① 学校としては坊主が望ましい。
② 生徒の自主性を認め、長髪にしても生徒らしく清潔で勉学に差し支えない程度ならば、学校としてはあえて干渉しない。
③ 長髪にしたい場合は、父兄(保護者、家庭)とよく相談し了解を得たうえで、別紙様式の「長髪届」を提出しなければならない。
となっていて、頭髪は生徒各自の自主性に任せる事になったのである。

次回に続く