恩師のニュース

武藤先生追悼連載『はにかみの人』Vol2

追悼連載

『弔辞』~武藤の旦那へ~

前校長 川合輔宏

平成二十九年十一月五日、武藤先生の「お別れ会」がありました。その前日の四日の朝七時過ぎ、村上元校長、荻野先生が校長室に来訪され、「あんたが現校長だし、国語科の先輩でもあるから、弔辞を読んでくれ。」と依頼を受けました。武藤先生への思いは溢れるほどありましたし、立場上、覚悟を決めてお引き受けしました。

その日はPTAの一日研修会。《中略》研修会疲れで、妻の迎えで帰宅し、そのまま寝床で万事休す。「お別れのことば」をと、夜中三時にふと目が覚め、一気に武藤先生への思いを述べました。その「弔辞」を追悼文とさせていただきます。

武藤武夫先生、いや、武藤の旦那。先日、十一月一日にお見舞いに行ったときは、もう旦那の声を聞くことは出来なかったですが、私の話に微笑んでくださった、あの人情味溢れた笑顔が思い出されます。今日ここに、旦那を偲んで集まってくださった皆さんを代表して、僭越ながらお別れの言葉を述べます。

私が城西に入った若かりし頃、私は二十三歳、旦那は四十五歳くらいだったでしょうか。安城で一緒に飲んで、旦那のお宅に泊めていただいた時、ふと居間の壁を見上げたら、手作りの棚に藤沢周平の本が並んでいました。旦那は、人間の優しさ、哀しみ、人として生きることの妙味を描いた作家が好きなんだなあと感じたことを思い出します。

旦那は、藤沢周平が描いた市井の人々と同じく、江戸っ子のきっぷのよさの中に人としての味わいのある生き方をしたいと、八十二年の人生を歩んできた人なんだなあとつくづく思われてなりません。

城西の夏山合宿。旦那はちょっと小さめのキスリングに大きな鍋をくくりつけて徳沢までの道を歩んでいました。生徒に旨い鍋物や味噌汁を飲ませてやろうとの思いだったのでしょう。その旦那の眼には、徳沢のテント場や徳沢からの前穂高がどのように映っていたのでしょうか。

そう言えば、秋田の山岳会に入っていらっしゃった時、そのサークルの雑誌に寄稿するからと、「おーい、へいすけ(私は城西の諸先輩方からこのように呼ばれていました)、槍ヶ岳山荘へ行って播隆上人の写真を撮って送ってくれ。」と依頼を受けたことがありました。その年の夏山合宿では、自分は奥穂高へ行く予定だったのに、槍ヶ岳へと足を向けたのを思い出します。

旦那は山の頂で、自然を、人生をどのように眺めていたのですか。今一度、話をお聞きしたかったと思い、残念でなりません。

奥さんの孝子さんの弟さんが亡くなって数年たった頃、気持ちの整理がついたのか、「俺は小説を書いたぞ。俺の書いたのを読んでみろ。」と送っていただいたこともありました。旦那のあの読みやすい几帳面な文字で書いたものではなく、パソコンで打ったもので「なんだ」と思っていましたが、ごめんなさい、その原稿はどこにいったのか、内容もあまり覚えていません。旦那の思いを無碍にしてしまったことが後悔されます。

平成二十六年の二月の卒業式の前日だったと思います。「あんたの校長としての初めての卒業式なのに出席できなくて申し訳ない。『高清水』(秋田の銘酒)を送ったから一杯飲め。」と電話をいただきました。私はありがたくて、ありがたくて涙を止めることができませんでした。

旦那の思いやり、心遣い、本当に本当にありがとうございました。武藤の旦那、お別れです。今日ここに旦那を偲んで集まった私どもは、旦那の作詩した「城西の応援歌」、~三河の遠き武士の今こそ見せん剛健の気~と、強く逞しく、そして、人への思いやり慈しみの気持ちを忘れずに生きていくことを誓って、お別れの詞とします。

武藤の旦那、お世話になりました。ありがとうございました。

平成二十九年十一月五日

追記

月日の経つのは早いものです。武藤の旦那のことをふと思い出す時には、あの慈愛に満ちた笑顔での一言、「バカ、哲朗」(鋤柄先生には失礼ですが)と伝う、あの声が耳の奥から聞こえてきます。

 還暦半ばを過ぎた自分も、人を愛し、人の世をおおらかに眺め、酒と自然を慈しみ、武藤の旦那ような味わいのある人生を送ることができたらと思っています。

合掌、平成三十一年睦月四日

『委員会より』

途中で筆者の思いが変わらぬように留意しながら、文章の中略を入れさせていただきました。その他は、原文のまま記載させていただいております。