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ネパール学校建設・LENP計画(Ⅵ)

ネパール学校建設・LENP計画(Ⅵ)

           投稿者  神谷欣吾       投稿日  2017年8月23日

 これまで5回にわたって『ネパール学校建設・LENPツアー』の詳細をお伝えしてきました。今回は、その15次に及ぶツアーが決して順風満帆だったわけではないこと、さまざまな困難を何とか乗り切って実施されてきたことをお伝えいたします(*写真①~③はいずれもe-Kantipur紙に掲載されたもの)。

・ネパール王宮大量殺害事件2001年6月1日 

2001年は第1次LENPツアーが行われた年です。大変な苦労しながらも達成感に満ちた第1次ツアーを終えた2ヵ月後にこの大事件が起こりました。

ビレンドラ国王夫妻をはじめ主だった王族一家が、皇太子ディペンドラの無差別銃撃によって殺害された、と言われる事件です。皇太子は現場で自殺した、とされています。 ただ一人当時王宮に居なかった国王の弟ギャネンドラだけが難を逃れました。この事件を巡ってはさまざまな憶測が飛び交い、事件の真相は現在に至るも不明です。この後直ぐにギャネンドラ国王が誕生して、ビレンドラ前国王が始めた立憲君主制を無視するかのように、独裁的な政治を開始しました。

 

 

写真①生前のディペンドラ皇太子

 

 

 

 

 

(2)内戦の激化・・・「夜間外出禁止令」下のLENPツアー

 1990年、ビレンドラ前国王が政権を議会に譲りネパール王国は議会制民主主義の国になりました。しかし歴代の内閣が汚職等腐敗しているとして国民の不満がたかまり、遂に1996年ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)は武装闘争を開始、12年に及ぶ内戦でおよそ12万人の犠牲者を出しました。

そのため2002年から2006年まで、LENPツアーは常に「夜間外出禁止令」(あるいは「戒厳令!)」が発動されている中でのネパール訪問となりました。在ネパール日本大使館とコ

ンタクトをとり、現地NGOの慎重な案内で無事にツアーを行うことが出来ました。

 

 

写真②ネパール全土の約1/2を実質支配したマオイスト軍 

 

 

 

(3)王政から共和制へ!『ネパール王国』240年の歴史の終焉・・・     

2006年の第6次LENPツアーでは、12年に及ぶ内戦の終結を願う国民の熱意がひしひしと感じられる空気でした。そして11月には、遂に全土の民衆の19日連続のゼネストによってギャネンドラ国王は政権を議会に委ね、240年続いたネパール王国が終わりを告げました。

その後新憲法制定の為の制憲議会が開催されて、2008年には最初の総選挙が行われました。

選挙の結果、かつての反政府武装勢力であったネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が地滑り的な勝利を収め、党首プスパ・ダハル・カマル(プラチャンダ)が首相に任命されました。

 

 

写真③国王の退陣を要求する民衆のデモを弾圧する武装警察隊

 

 

 

 

(4)国内線の飛行機が飛ばない!・・・・・・ホテルの確保は?日程の遅れはどうなる?

カトマンズーポカラの国内線の飛行機が天候不良の為にキャンセルになるトラブルが2度ありました。特に第3次LENPツアーではカトマンズのトリブバン空港でほぼ終日待たされた挙句欠航となり、その晩のホテルの手配、ポカラ空港で待つコピラ・ネパールの仲間への連絡、翌日からの日程の調整など大童でした。

15次LENPツアーでは、逆にポカラ空港でカトマンズ行きを待ったのですが、視界不良で飛行機が来ず急遽マイクロバスをチャーターして陸路首都を目指しました。しかし、前年からのインドによる国境封鎖の為物資がネパールに入らず、国境開門を聞いてインド国境に向かうトラックの列と、途中の交通事故のために予定の5時間の倍以上かかって

 

 

 

写真④陸路カトマンズを目指すも、事故の為に大渋滞!!

 

 

 

 

 

やっとカトマンズに着きました。

・幻の第8次LENPツアー・・・・・痛恨の「オーバーブッキング」!2008年の「第8次LENPツアー」は、航空会社のオーバーブッキングが発生、ネパール行きの航空券が取れない事態に陥ってしまいました。やむなくこの年はツアー中止、第8次ツアーは翌年実施しました。その他、「9・11テロ」翌年の第2次LENPツアー、東日本大震災の第10次LENPツアーも参加者の意志を確認しながら実施しました。今さらに、よくぞ15回も続けられたと感慨ひとしおです。岡崎城西高校・安城学園、そして各回参加者の皆様のご協力に心から感謝いたします。